書評「考える脚 北極冒険家が考える、リスクとカネと歩くこと」
5月5日、北極冒険家の荻田泰永さんが「北極圏を目指す冒険ウォーク2019」のゴールに到達したとのこと。おつかれさまでした。
そのタイミングで、3月末に出た荻田さんの著書を読みました 。
主な感想は2つ。
「北極は怖い。南極のほうがマシ」
「冒険家の"旬"は短いのかも」
荻田さんは昨年末から今年のお正月にかけて、日本人として初めて「南極点無補給単独徒歩到達」を達成されています。
webで行程を見ていたのですが、出発してしばらくしたら「ああ、これは成功するだろうな 」とほぼ安心していました。南極大陸の危険な場所は、海岸から少し入ったところの急傾斜で、これを超えると足元のクレバスに落ちる、という心配はなくなります。
シロクマなど危ない動物がいるわけでもなく、夏であれば天候も安定しているし、怪我や病気がなければ、まず大丈夫。
一方で、北極は、いつ足元の氷が割れるかわからないので熟睡できない。ホッキョクグマもやってくる。わたしには、南極を歩くのはできなくはないですが、気の休まるときのない北極は、絶対無理ですねえ。
北極よりも遥かに容易だった「南極点無補給単独徒歩到達」を終えて帰国すると、取材が多くてびっくりしたとのこと。まあ、ふつうは北極と南極の危なさの違いはわからないですよね。私も片方しか知らないですが。
もうひとつ興味深かったのはお金を集める苦労で、実績がないとなかなか難しい。南極はそのわかりやすい実績を積むにはよいチャレンジだったのでは?と私は思っていました。
このあたりは、研究費を集める苦労にも通じるものがあります。私も今年応募する予定ですが「科研費」の採択率はだいたい30%。ある程度実績がないと通りにくい(お金を託してもらえない)です。
ただ、実績を積むには時間も必要で、その間に年も取ります。研究者はともかく、冒険家は体力の衰えとも向き合わないといけない。お金をゲットでき、かつ挑戦できる時間はそんなに長くないのではないでしょうか。(86歳で南米最高峰・アコンカグアに登ろうとした三浦雄一郎氏のような例もありますが。)
研究者の場合は、冒険家よりは活動できる期間が長いと言えるでしょうし、研究費には後進の育成に役立てるという意味も大きいです。わたしもずいぶんお世話になっています。若者と一緒に北極圏を歩く「北極圏を目指す冒険ウォーク2019」、という荻田さんの試みは、研究費を若手の研究に役立てようとする研究室に近いものを感じました。
1期性になるということ
遅ればせながら、人事異動がありました。
といっても、勤め先ではなくて、研究の身分です。
4月1日付で、認定NPO法人 富士山測候所を活用する会・富士山環境研究センターの特任研究員に任ぜられました。
一昨年の8月に、観測測器を回収する仕事で富士山に登ってきました。
「富士山測候所を活用する会」は、2004年に無人化された旧富士山測候所を高所の研究拠点にしよう、という団体です。
南極から帰国したあと、研究のご指導と頂いている先生が東京学芸大学から移籍されたので、私も2年間にわたり研究員としてお世話になったから離れることになりました。論文や学会での発表、そして研究費申請などなど、「無所属」では具合のよくないことがあります。いろいろな方のお気遣いにより、富士山環境研究センターの特任研究員を拝命することになりました。(無給ですが)
4月20日に運営会議があって、辞令を頂戴しました。
研究センターは今年度からスタートするもので、私は「1期生」になります。自分の研究を進めて、成果を出して、NPOにも私にもwin-winとなるように頑張っていかなくては。そして、目指せ科研費!
南極と富士山、ある意味似ている極地の環境のもとで、どんな違いを調査するか、研究のネタを考えているところです。
「面白南極料理人」最終回まで
年度末のお仕事の余韻が4月第一週まで繰越しまして、時間がなかったのです。ようやく、ようやく最終回まで録画を見ることができました。
「すばらしいなかまにめぐまれました、ありがとう」なんていう感想は、越冬終了直後、帰国直前にはなかなか出てこないもんだと思います。「やっと終わりますねえ、おつかれさま」という思いを持つ人が多いんじゃないかな。私もそうでした。
南極は、自分の仕事に自分で責任をもつことが求められるところです。私が休んだら私の仕事はたぶん片付かない。当番のしごとは代わってもらうことができますが、そのぶんどっかにしわ寄せが行く。国内だとその「しわ」が目立たない程度に、代わりを頼める人がいることが多いのでしょうが…。
帰国して3週間後に開催された帰国歓迎会で、また行きたい、と即答した人は一人だったと。
ただ、人間の記憶にはふるい、あるいはフィルターがありまして、辛かったことはだんだん薄れていく、楽しかったことは相対的に鮮やかになっていく。そうして時間が過ぎていくと「また行きたい」と考え始める人は出てくるのですよ。私も2回、行っちゃいましたし。
そんなことを思いながら、温めてザラメを入れた紹興酒を片手に、ぼんやりと最終回を眺めていました。
あ、そう、ちゃんとその前の第11話もみてますよ。一応。
って、当時のドームふじにハンバーガーに使うレタスなんて持っていけるわけないでしょ! もうちょっと脚本練ろうよぉ。
2年越しのミラクル
3月21日に、日本南極地域観測隊59次越冬隊と60次夏隊が帰国しました。
今年はシドニーから成田へ直行便。私の参加した57次越冬隊は香港経由で羽田空港へ帰り着きましたが、やっぱり直行便のほうがいいよね。
春分の日でお休みだったので、お迎えに行くことができました。
成田まで足を運んだもう一つの理由は、2年前の忘れ物をとりにいくこと。
2017年の1月、昭和基地からヘリコプター出かけたインホブデというところに、デジカメを忘れてきたのです。nankyoku-30nin.hatenablog.com
なくしたのはRICHOの360度カメラ・THETA。昨年書いたこの記事のカメラです。
荷物の中にないなあ、と気づいてはいたのですが、どこで無くしたかもわかっていなかったし、予備のカメラも持っていたので、残念だけどしょうがないかとあきらめていました。(上記の記事の国内写真は予備機で撮りました)
もう忘れかけていた今年の1月27日に、私のものらしいカメラを発見したとのメールが届きました。
ケースに入れていたのですが、氷のくぼみに囲まれて綺麗に保存されてたとのこと。少し湿った感じはあったので、南極観測船「しらせ」の船内でじっくりと乾かして持ち帰って頂いたそうです。感謝!
空港でうけとって持ち帰って充電して、電源ボタンを押すとランプは点灯しました。一般に、電気機器類は高温には弱いが低温には強いとされています。昭和基地には外気とほぼ同じ温度になる、空調のない倉庫がありますが、電化製品が低温で壊れた、という話はあまり聞かないのです。
南極の大地に2年間、閉じ込められていたこのカメラに、最初に何を見せてあげようか。観測隊の帰国の日に開花が発表になった、桜の花を撮りに行きましょうか。
「面白南極料理人」第10回
今回の燃料輸送大作戦は、原作でのハイライトだと思うのですよ。映画ではカットされていたのは、解せぬ。
昭和基地でも、万一の事故に備えて、燃料は隊員の住む主要部からは1キロメートル以上離れたところに保管してあります。
そして、だいたい月に一回、遠くにある大きな金属タンクから基地主要部近くのタンクにポンプで燃料(軽油)を送り込むことになっています。
昭和基地だとポンプで送り込めばよいのですが、気温がマイナス70度以下に下がるドームふじでは、軽油が凍らないにせよドロッとしてくるので、ドラム缶ごと持ってこないと厳しいのでしょう。
南極大陸を旅するときには、手回しポンプで雪上車に給油するのですが、寒いときにはやはり軽油の粘性が上がって、ポンプが重たくなって苦労しました。