世間がもし30人の基地だったら

日本南極地域観測隊に参加して、2015年12月に日本を出発しました。昭和基地で南極の冬を過ごして、2017年3月23日に帰国しました。帰ってからも南極に関わることがときどきあるので、更新を続けています。

隊次について考える

8年あまり前、私が48次越冬隊員として昭和基地にきているとき、49次隊の同行者だったオーストラリアの砕氷船「オーロラ・オーストラリス」のスタッフとバーで飲みながら「日本の南極観測隊ってどう思う?」ときいてみました。

「同じ隊の中はとてもフレンドリーで、家族のようだが、別の隊とはそれほどでもない。ユニークだ。」といっていました。

日本の南極観測隊は、3月初めの冬訓練に参加して顔をあわせるところから始まり、隊員の多くが極地研究所の隊員室で5カ月ほど一緒に仕事をして、さらにみんなでしらせに乗って、3週間かけて昭和基地にたどり着きます。同じ釜の飯を喰らい、お酒を飲み、残業もして、南極の夏の作業では手伝いに行ったり仕事をお願いしたり、同じ隊の中はフレンドリーになるのは当然、という気がします。

でも、これは日本の観測隊の特徴であって、南極観測にかかわる人々がみんなこうした濃い人間関係をもっているわけではないようです。
例えばマクマード基地(アメリカ)へはニュージーランドのクライストチャーチからアメリカ空軍の輸送機で5時間くらいでついてしまうそうです。航空機を主な移動手段にすると、基地に滞在している人はしょっちゅう入れ替わるので、第XX次隊、という枠組みはあまり意味をなさないのでしょう。

 

昭和基地に飛行機で行く方法は、あります。

DROMLAN(ドロムラン)という、11か国の国際プログラムがあり、南極大陸にある、昭和基地に近い航空機観測拠点に飛行機が離着陸します。今年も、機械部品の輸送のために利用されました
これを使うと、夏なら日本から数日で昭和基地に来ることができます。荷物は船で運ぶとしても、隊員は飛行機で昭和基地にアクセスすればいいのではないか、という議論もあるようですが、やはりネックになるのはお金。そして、日本の南極観測の運営が、船で往復、年に一回の隊員交代に適合したシステムをくみ上げてしまっていることが、最大の要因だとわたしは思っています。

年に一回、しらせがやってきて、人はとりあえず暮らせる夏宿舎に滞在。荷物は見事な連携のもとに受け取って、しかるべき場所に運ぶ。夏作業では「これだけの作業をこの人数で、しかも作業員の半分は素人で、無理でしょう」という計画を、なんとかしてこなしてしまう。(そして、次年度も同じようにきつい計画が組まれてしまう)

わたしが二十数年間、役所で働いていたので、普遍的なものではないのかもしれませんが、日本の組織は、厳しく制約された状況に適応してみごとに結果を出しますが、状況そのものを変えるのは苦手だと感じています。

南極点基地に行ったことのある人の話を聞いたり、昭和基地でこの本を読んだりして思うのは、日本の南極観測隊の運営は良くも悪くも日本的ですね。当然ながら。 

命がけで南極に住んでみた

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