白瀬矗について考える
シドニーでの2日目、3月21日に尋ねたParsley bay beachです。
海辺にトレッキングルートが整備されていて、湾の奥にはこどもむけの遊具があります。ここが、白瀬矗の一行がキャンプしていたところです。木々の樹齢が百年を超えていれば、彼らがキャンプしていた周囲に生えていたのでしょう。
2002年に、この公園に記念碑が建てられました。シドニーの郊外、この公園が位置するウラーラ市長と白瀬矗の出身地、秋田県金浦町長の連名です。
碑には「シドニー湾岸を転々とした後、隊は最終的にパースリィ湾の旧キオスクの裏に居所を設営することができました」とあります。英文と照らし合わせてみると、何箇所か行ってみたけどうまくいかず、ここに来た、と読み取れます。
で、旧キオスク(売店?)って何よ、と思っていたら、公園の近くに、"Parsley bay marine environment"という別の説明プレートがありました。1908年、白瀬隊が来る3年前の写真です。
常設ではなさそうですが、何かテントを張ってあります。キオスクというのは、日本で言う「海の家」のようなものでしょうか。無人の湾ではなく、それなりに人が管理しているところに見えます。英文の解説によると、1907年には州政府が土地を取得して、続く数年でVaucluse councilの管理下に置いた、とあります。どうやら白瀬隊は公的な管理地に入って住みついたようです。
地元住民との軋轢もあり、スパイ扱いもされたとのことですが、それもやむを得ないでしょうね。そんな目立つことをするスパイもいやしないでしょうけれど。
白瀬隊はキャンプ地を設定するための準備・根回しはせず、行き当たりばったりで動いていたようです。南極行動全般について見ても、白瀬隊「南極記」と同時期のアムンゼン隊、スコット隊の記録と比べると、こうした準備の不足が目につきます。
わたしは、白瀬矗が帝国陸軍軍人だったことが、この一つの要因ではないかと考えます。一言で言えば、ロジスティックスの概念の欠如。旧陸軍が補給についての意識が薄かったことはよく知られるところですが、白瀬さんもその例にもれないように思われます。
白瀬隊は国からの援助がほとんどなく、財政的にはかなり厳しい運営を強いられたとのことですが、たとえばシドニーで気持ちよく滞在して英気を養うために、お金がなくてもできることはあっただろう、とこの地で思いました。白瀬矗は意志の強固な探検家であっても、実現するための手順をきちんと辿っていくことはできていなかった、あるいはそうした仕事を引き受ける実務家を手元においておけなかった。
極地の大先輩に対して失礼な言い方ではありますが、そんなふうに思いました。